「 司法への米国の畏怖と日本の無関心 」
『週刊新潮』 2016年3月3日号
日本ルネッサンス 第694回
日本と米国でこれ程違った形で報道されるのかと、驚いたのが米連邦最高裁判所判事の死亡だった。
2月13日、死去したアントニン・スカリア最高裁判事を悼んで「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)紙は、ワシントン記念塔で13枚の星条旗が半旗として掲げられた大きな写真を1面で報じた。日本で最高裁判事の死亡に関して、このような報道がなされたことは未だかつて記憶にない。7月の国政選挙が衆参同時になれば、私たちは最高裁判事の是非に関しても判断を求められる。しかし、一体誰が最高裁判事について、十分な知識を持っているだろうか。否、名前さえ知らない人が圧倒的に多いのではないか。
1人の判事に関して大きな写真を掲載し、詳報する米国では最高裁判事1人1人の名前も、判決の傾向も、多くの人が知っていると言ってよい。日米は国情も文化も、意見の折り合い方も異なるため、一概には言えないが、米国の司法が国民生活に深く結びついていることを感ずる。
連邦最高裁は9人の判事で構成され、全員、大統領が指名する。上院で60人以上の支持を得て承認され、承認を得れば一生涯、最高裁判事にとどまり得る。無論、途中で辞任するケースもある。
スカリア氏は86年にレーガン大統領に指名され、30年間、最高裁判事をつとめ、現職のまま死亡した。日本の報道では氏は「保守派の代表格」(「毎日新聞」2月15日夕刊)などと定義され、「自己防衛のために個人の自宅における銃の所持を認める判決文を書いた」ことや「同性婚を認めた判決や医療保険制度改革(オバマケア)の合法性を認めた判決では反対意見を述べた」ことなどが報じられた。
同性婚の件に見られるように、世論を2分する重要訴訟の多くで、9人の判事が5対4に分かれて僅差で判決が下されてきた。スカリア氏の死亡によって、連邦最高裁の勢力図はこれまでのリベラル対保守が4対5だったのが4対4に変化した。残り1人を誰にするかによって米国の国の形が大きく影響されることから、民主、共和両党が激しく争い始めた。
「原意主義」
オバマ大統領は後任候補の検討に入ったことを明らかにしたが、共和党上院の実力者で院内総務のミッチ・マコネル氏は「次の大統領になるまで後任を選ぶべきではない」との声明を出している。
共和党の大統領候補者はマコネル氏に賛成し、他方、民主党の候補者はヒラリー・クリントン氏もバーニー・サンダース氏も、現職のオバマ大統領にこそ後任人事を決定する権利があると息巻く。
だが、9人目の判事を決めるのはオバマ大統領にとって容易ではない。余りにリベラルな人材を選べば、上下両院で多数を有する共和党の承認は得られないからだ。オバマ大統領が後任人事を決定できないまま、先送りされれば、次の大統領が米国の司法を事実上左右することになる。アメリカの国の形を心配する有権者はどの党を支持するにしろ投票に向かい、両党にとって党勢拡大につながるとも分析されている。
WSJは2月16日の社説で最高裁の状況を、「固く団結するリベラル4判事」と「憲法の精神に則る余り同一判断を下さず、共和党の政策とは必ずしも共鳴しない保守判事の一群」として描いた。
4人のリベラルな判事は2人をビル・クリントン元大統領が、もう2人をオバマ大統領が指名した。彼らはどのケースでも団結して同じ判決を支持してきたと、WSJの社説は事例を挙げて指摘する。民主党指名の最高裁判事4人は民主党の政策に合致する判決を出し続けており、「政治的」だというのだ。
他方、スカリア氏をはじめ共和党指名の判事たちは憲法や法律の理念を優先させ、時として共和党の政策に真っ向から反対するという。
なぜ、そうなるのか。理由はスカリア氏の法曹人としての特徴が「原意主義」(Originalism)にあるからだと説明されている。最高裁判事は「法衣をまとった政治家」と揶揄されがちなのに対し、スカリア氏は米国憲法の精神に基づいて眼前の問題をどう判断すべきかを探り続けたとWSJは評価する。リベラルな判事たちが「憲法は生きもの」(Living Constitution)であるとして、憲法の理念を時代の変化に合わせて「解釈」し直そうとするのに対して、スカリア氏は「矯正」を試みたというわけだ。
スカリア氏が一貫して合衆国憲法の精神に忠実であろうとした事例としてWSJは、氏が個人の銃の所持を認め、中絶や同性婚に反対するという強硬な判断を下した一方で、アメリカ国旗を焼き捨てることをアメリカ合衆国国民の正当なる権利であるとして認めたケースを挙げている。
司法と国民の距離
国旗を焼き捨てることを国民の権利と位置づけるのは、共和党の政策とは明らかに異なる。スカリア氏は「サンダル履きのだらしのない変人」が国旗を焼こうとするかもしれないが、と述べて嫌悪感を隠さなかったが、国旗を焼く「権利」は認めたのだ。この事例は、成程、氏の本質の一断面を切り出して見せている。
このような人物の後任人事はただでさえ容易ではない。勢力拮抗の中、しかも大統領選挙の最中である。選挙の最大の争点になるのは当然だ。
いま、連邦最高裁の手元にある案件は移民制度改革、人工妊娠中絶の合法化、大学の入学選考における人種要素の考慮の可否などで、6月までに最高裁は判断を示す見込みだ。しかし、そうしたことよりもっと重要な案件がある。それは憲法修正第1条の人権条項だという。
アメリカ合衆国憲法が作られたとき、そこには人権条項は入っていなかった。後の修正で人権条項が加えられたのである。
具体的にはフリードリッヒのケースと呼ばれる労働組合員の組合費徴収の件だとWSJは警告する。同件で最高裁判事は4対4で2分されているが、ここにリベラルな判事が投入されれば、組合費徴収は合憲とされ、自身が反対する政策について支持しない権利が組合員から奪われてしまいかねないというのだ。
宗教的信条から妊娠中絶に反対する人々も、中絶支持のオバマケアを介して強制的に中絶のための負担をしなければならないとも警告されている。
連邦最高裁判事の交替についてこれ程熱い論争を重ねるアメリカを見て、日本での司法と国民の距離の遠さを実感する。私たちは最高裁判事の名前さえよくは知らない。彼らの下す判決についてもほぼ無関心だ。これは国の形というものに対する無責任の裏返しではないかと自省する次第だ。
